会田誠氏の「性的発言」についての損害賠償請求と「とらわれの聞き手」

さいとうゆたか弁護士

報道によると、芸術家の会田誠氏が講師を務めた京都造形芸術大学の公開講座に参加していた女性が、会田誠氏が講座で性的発言をしたということで、大学に賠償請求を求める訴訟を提起したということです。

女性は人格権を侵害されたということで訴えたのだと思いますが、他方、会田氏にも表現の自由があります。

この点、どう調整をすべきでしょうか。

参考になるものとして、地下鉄における商業宣伝放送差止等請求事件に関する最高裁昭和63年12月20日判決での伊藤正己裁判官補足意見があります。

同判決で、最高裁は、地下鉄における商業宣伝放送を違法だと主張した上告人の請求を認めませんでした。

伊藤正己裁判官もその結論には同意しつつ、以下のとおり述べます。

「法的見地からみるとき、すでにみたように、聞きたくない音によって心の静穏を害されないことは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。個人の居宅における音による侵害に対しては、プライバシーの保護の程度が高いとしても、人が公共の場所にいる限りは、プライバシーの利益は、全く失われるわけではないがきわめて制約されるものになる。したがって、一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない。
二 問題は、本件商業宣伝放送が公共の場所ではあるが、地下鉄の車内という乗客にとって目的地に到達するため利用せざるをえない交通機関のなかでの放送であり、これを聞くことを事実上強制されるという事実をどう考えるかという点である。これが「とらわれの聞き手」といわれる問題である。
人が公共の交通機関を利用するときは、もとよりその意思に基づいて利用するのであり、また他の手段によって目的地に到着することも不可能ではないから、選択の自由が全くないわけではない。しかし、人は通常その交通機関を利用せざるをえないのであり、その利用をしている間に利用をやめるときには目的を達成することができない。比喩的表現であるが、その者は「とらわれ」た状態におかれているといえよう。そこで車内放送が行われるときには、その音は必然的に乗客の耳に達するのであり、それがある乗客にとって聞きたくない音量や内容のものであってもこれから逃れることができず、せいぜいその者にとってできるだけそれを聞かないよう努力することが残されているにすぎない。したがって、実際上このような「とらわれの聞き手」にとってその音を聞くことが強制されていると考えられよう。およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手が多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(「思想表現の自由市場」といわれるのがそれである。)。したがって、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。
本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといって、「とらわれの聞き手」への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような「とらわれの聞き手」に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。」

このように、表現の自由が尊重されるべきだとしつつ、その表現を受け取らざるを得ない「とらわれの聞き手」についてはプライバシーの権利について特別の配慮が必要だとしています。

表現の自由の重要性に照らし、このようなバランスの取り方についての考えは色あせていないと思います。

これに照らした場合、今回訴訟を起こした女性は、自らの判断で、性的な作風であることで有名な会田誠氏の講座を受講しているのであり、「とらわれの聞き手」とは言いにくいように思います。

裁判所には、表現の自由と人格権両権利の適切な考量をしていただきたいと思います。

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