十七条憲法と大日本帝国憲法、日本国憲法の連続性

さいとうゆたか弁護士

よく聖徳太子・厩戸皇子の十七条憲法が日本初の憲法であるとか、今でいう憲法と似たものだということを言う人がいます。

そのような発言は正しいのでしょうか。

この点、穂積陳重著「法窓夜話」(大正5年発刊)に「憲法」という章があり、十七条憲法の時代から明治憲法の時代に至るまでの「憲法」という言葉の使い方が紹介されています。

そこでは、徳川時代の「憲法部類」という、諸法令を収録した書籍を紹介しつつ、近代にいたるまでは「憲法」という言葉は「全ての法規を含んでいた」とします。

明治になって、「憲法類集」という書物が出されるも、これも六法のようなものだったとします。

西洋のconstitutionの概念が日本に紹介されるようになった際、福沢諭吉は「西洋事情」でこれを「律例」、加藤弘之はこれを「国憲」と訳したとします。

そして、「憲法なる語を始めて現今の意義に用いたのは」箕作麟祥であり、明治6年出版のフランス六法の中ではじめてconstitutionを「憲法」と訳したとします。しかし、当時は、学者は、憲法とは通常の法律を指すものであり、箕作博士の訳は当たっていないと批判がされていたそうです。

それが明治天皇が憲法制定を勅定したときから近代的意味の「憲法」という語が固まったということです。

このように、聖徳太子以降近代以前の「憲法」という言葉は法というくらいの意味でしかありません。

ですから十七条憲法が国家の基本法という意味での近代憲法のはしりであったかの主張は誤りというしかありません。

しかし、箕作博士も十七条憲法のことは知っていたでしょうから、念頭に十七条憲法があり、constitutionを「憲法」と訳したのかもしれません。

聖徳太子の評価は、明治初期までは外国かぶれという評価であり、それ以降不平等条約改正のための外国文化取入れの動きの中で再評価されるようになったとされています(石井公成「聖徳太子とは何者か」)。

このように不平等条約改正の動きの中で聖徳太子に対する再評価がなされ、同時に不平等条約改正のための明治憲法制定の動きが進展し、両者相まって異論のあった箕作博士のconstitution=「憲法」との訳が定着した可能性は否定できないと思います。

大日本帝国憲法の告文は、「憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス」としています。明示はされていませんが、上記経過からして、ここにいう「統治ノ洪範」という言葉に十七条憲法を読み込むことが不可能とは思えません。

ただし、伊藤博文が記した大日本帝国憲法の解説書である憲法義解では、ヤマトタケルなどの皇族・天皇の名前は出てきますが、聖徳太子・厩戸皇子の名前も十七条憲法のことも出てきません。ですから、少なくとも、伊藤博文やその周辺においては聖徳太子や十七条憲法を強く意識はされていなかったでしょう。ですから、あくまで、さまざまな訳があるものの、決め手を欠いていたところ、箕作博士という権威が訳したことに加え、聖徳太子についての再評価が、一要素としてconstitution=「憲法」という訳の確定に寄与した可能性があるというレベルだと考えます。

ですから、十七条憲法と近代憲法である大日本帝国憲法に連続性があるという見方は不可能ではありませんが、あくまでそれは政治的なレトリックの上でというだけであり、両者が国法上果たす役割の大きさの質的違いは否定しようがありません。

国民主権を正当化根拠とする日本国憲法については、政治的なレトリックという面においても十七条憲法との連続性はありません。

なお、ちくまWEBの苅部直「聖徳太子『憲法17条』」は、明治憲法で「憲法」という語がつかわれたことが聖徳太子評価を高める役目を果たしたとしていますが、そのような側面も否定できないように思います。

 

 

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