三権分立だから検察庁法改正反対というのはおかしい

さいとうゆたか弁護士

1 検察庁法をめぐる議論

現在、検察官の定年を引き上げ、同時に役職定年を設けつつ、内閣の判断で役職定年の例外を設けることができるという検察庁法に対する反対が広がっている。

私は、この新型コロナで大変なときに不要不急の法改正をするのはおかしいという理由で法改正には疑念を持っている。

また、国民からの信頼をなくした黒川検事長が検察幹部のままであれば、検察組織も十分その機能を発揮しなくなるだろう。だから黒川検事長は即座に辞任すべきだと考える。

しかし、三権分立を検察庁法反対に結びつける議論には違和感しか感じない。

以下、理由を述べる。

2 法の立場

憲法学の定番的教科書である芦部信喜著高橋和之補訂「憲法第5版」345ページは、「司法権独立の意義」の項目において、「裁判が公正に行われ人権の保障が確保されるためには、裁判を担当する裁判官が、いかなる外部からの圧力や干渉をも受けずに、公正無私の立場で職責を果たすことが必要である。そのため、司法権独立の原則は、近代立憲主義の大原則として、諸外国の憲法において広く認められてきた」と述べている。つまり、司法権の独立は裁判所や裁判官の独立を指す。検察官や検察庁の独立は含まない。憲法にも検察官の独立を規定するような条文はない。

そうはいっても、検察官が司法に携わるというその職責から準司法的立場にあると言われることがあることは間違いない。

そして、そのため、一定の独立性が要請されているのも間違いない。

問題は、検察官の独立は、憲法で規定されたかなり強い要請というものではないということである。そこが裁判官や裁判所との決定的な違いだ。

日本の検察は、戦前、裁判所と明確に区分されないまま、数多の人権侵害を繰り返してきた。

そのため、戦後の刑事司法や刑事法学は、いかに検察を裁判所から切り離すか、つまり司法機関ではなく行政機関・当事者とすることに懸命に取り組んできた。

これは昔の話として等閑視していいものではない。

現在でも、検察の起訴を裁判所が鵜呑みにし、有罪が原則になっているという場面もあるのではないかと指摘されているところである。検察と裁判所の分離が不十分という言い方ができよう。

このように、検察を司法から切り離し、行政・当事者に近いところに位置付けていくことは、検察の独立と同様、あるいはそれ以上に極めて重要な課題なのである。

それにも関わらず、あたかも検察は司法機関であり、その独立をはかることが正義であるかの言説は、戦前から戦後にかけての検察改革を無視するもののように思われてならない。

3 実情を踏まえて考える

検察の実情を踏まえても、検察の独立性を強調する議論にはついていけないものがある。

検察は、これまで、証拠捏造、被疑者に対する暴行など、違法行為を繰り返してきた。

もちろん、違法行為が全くない組織などはない。

だからこそ重要なのは外部からのチェックだ。

日本ではそのチェックは内閣など政治部門が果たしている。

これを別の第三者委員会のようなものが果たすという議論があってもいいとは思うが、現実にはそのような議論は進んでいない。

そうだとすると、検察の独立を強調し、政治部門の統制を外すということは、これまで決して問題なしではなかった検察の手前勝手を容認することにもつながっていく。本当にそれでいいのだろうか。

現在の検察庁法改正反対の議論は、検察は遠山の金さんのような正義の味方で、正義の味方が活躍して悪い政治家をやっつけるのを邪魔するような仕組みをつくってはいかないという議論に近いように思う。本当に検察は無謬で、ほっておくと正義を実現するような組織なのだろうか。

4 検察庁法改正をめぐる議論に望むこと

これまでの経過をふまえると、人々が検察庁法改正に邪な動機を見出しても当然だと思う。

しかし、政治部門が検察に対してコントロールを及ぼすことの危険性と同時に、検察が「検察の正義」で暴走することの危険性にも配慮した、多面的な議論がなされることを期待する。

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