なぜ死ぬ権利を認めてはならないのか 裁判例を中心に検討しました

さいとうゆたか弁護士

執筆 新潟県弁護士会 弁護士齋藤裕(2019年度新潟県弁護士会会長、2023年度日弁連副会長)

さいとうゆたか弁護士

1 京都府警がALS患者を安楽死させたとして嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件と「死ぬ権利」についての議論

京都府警がALS患者を安楽死させたとして嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件をめぐり、「死ぬ権利」をめぐる議論がなされています。

この点、舩後靖彦参院議員は、死ぬ権利より生きる権利を守る社会にしていくことが大事だと指摘しています。

大変重要な指摘とは思いますし、生きる権利を守る努力は常にしなければならないでしょう。

しかし、そのような努力をしても残る耐え難い病苦に苦しむ患者の「死ぬ権利」の問題はなくなりません。

新聞などは、「死ぬ権利」より「生きる権利」をという論調の社説を掲載したりしていますが、口当たりのよい言葉を並べているだけであり、肝心な問題から逃げているように思えます。

そこで、以下、そもそも(積極的に)「死ぬ権利」が認められるかどうか検討してみます。

2 「死ぬ権利」と裁判例

死ぬ権利について判断した裁判例として、2つを紹介します。

 医師による治療中止の可罰性が問われた事件についての横浜地裁平成17年3月25日判決は以下のとおり述べます。

「生命が尊貴であり,生命への権利・生命の最大限の保護がその担い手の生存期間の長短,健康,老若,社会的な評価等において段階付けられることなく保障されなければならないことはいうまでもない。とりわけ,医療において,生命が最大限尊重され,その救助・保護・維持が可能な限り追求されるべきであることは論を待たない。しかしながら,既に指摘されているように,近時の高度な延命医療技術発展の結果,過去の医療水準であれば人間の自然な寿命が尽きたと思われる後も,種々の医療機器等の活用によって生物学的には延命が可能な場合が生じ,過剰医療との批判も生じてきている。そのような状況が,患者に,自己の生の終わりをどのような形にするか,自己の生き方の最後の選択として,死の迎え方,死に方を選ぶという余地を与えるとともに,医師の側には,実行可能な医療行為のすべてを行うことが望ましいとは必ずしもいえないという問題を生ぜしめて来ているものと思われる。この前者が患者の終末期における自己決定の問題であり,後者が治療義務の限界の問題である。」
「したがって,末期,とりわけその終末期における患者の自己決定の尊重は,自殺や死ぬ権利を認めるというものではなく,あくまでも人間の尊厳,幸福追求権の発露として,各人が人間存在としての自己の生き方,生き様を自分で決め,それを実行していくことを貫徹し,全うする結果,最後の生き方,すなわち死の迎え方を自分で決めることができるということのいわば反射的なものとして位置付けられるべきである。」

 

医師による治療中止、薬物投与による安楽死の可罰性が問われた横浜地裁平成7年3月28日判決は以下のとおり述べます。

現在の医学の知識と技術をもってしても治癒不可能な病気に患者が罹り、回復の見込みがなく死を避けられない状態に至ってはじめて、治療行為の中止ということが許されると考えられる。それは、治療の中止が患者の自己決定権に由来するとはいえ、その権利は、死そのものを選ぶ権利、死ぬ権利を認めたものではなく、死の迎え方ないし死に至る過程についての選択権を認めたにすぎないと考えられ、また、治癒不可能な病気とはいえ治療義務の限界を安易に容認することはできず、早すぎる治療の中止を認めることは、生命軽視の一般的風潮をもたらす危険があるので、生命を救助することが不可能で死を避けられず、単に延命を図るだけの措置しかでしない状態になったときはじめて、そうした延命のための措置が、中止することが許されるか否かの検討の対象となると考えるべきであるからである。」(治療中止に関する記述)

同判決は安楽死については「死ぬ権利」についての議論を避けています。

いずれも生命尊重という考え方をベースに、「死ぬ権利」そのものを否定しています。

後者については、最終的には一定の限度で薬物投与による安楽死を許容しているので、「死の迎え方ないし死に至る過程についての選択権」の中に安楽死を受ける権利が含まれているのかもしれませんが、位置づけがかなりあいまいです。

 

3 憲法的にどう考えるか

憲法13条の幸福追求権からは生命についての自己決定権も認められます(佐藤幸治「日本国憲法論」(188頁))。

各自の生命をどうするのか、それを終了させるのか否か、どのように終了させるのかを決めるのは本人だというのが大原則と思われます。

このような生命についての自己決定権が制約されるとしたら、制約をする合理的根拠が必要です。

それが許されない、そのような自由を行使できないとしたら何がその理由となるのでしょうか?

横浜地裁平成17年3月25日判決は、生命が尊貴だということを理由に、ほぼ論証なしでこの自己決定権を否定しています(詳しくは、川崎協同病院事件判決・決定に関する評釈の論点整理をご覧ください)。

しかし、その尊貴な生命が各自に所属し、各自が処分権を持っていることをどう考えるか、検討した形跡がありません。

横浜地裁平成7年3月28日判決は、「生命軽視の一般的風潮」を理由に自己決定権の行使に制限を認めるようです。

しかし、生命についての自己決定権を制約する根拠を「一般的風潮」に求めるというのではあまりにも人権制約根拠としては弱いと考えます。

この点、もし人権制約の根拠がありうるとしたら、安楽死や尊厳死を他者から迫られざるを得ない立場の人もいる、そのような人の自己決定権が侵害される可能性があるという点に尽きると思います。

そのため、「死ぬ権利」を行使したいという意思が真意に基づかないものである可能性がある場合、「死ぬ権利」の行使を認めないという調整が妥当だと考えます。

具体的には、横浜地裁平成7年3月28日判決が述べる、(1)患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること、(2)患者は死が避けられず、その末期が迫っていること、(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないことという要件はありうる要件だと思います(私は、死が迫っていなくても、耐え難い身体的苦痛が長年月続くことが想定されるような場合、2の要件はなくてもいいと思いますが)。

4 「死ぬ権利」についての議論を

主治医でもない人が安楽死をさせたとすれば、あまりにも意思確認が不十分ですし、その行為が適法化される余地はないと考えます。

優生思想もありえませんし、ALS患者の生きたいと思う気持ちに寄り添った政策がきちんと展開されるべきも当然です。

しかし、「生命の尊重」というマジックワードをふりかざすだけで、耐え難い身体的苦痛に苦しんでいる人の救済を真摯に考えないのであれば、無責任と言えると思います。

「死ぬ権利」は「死ぬ義務」に転化しかねないというのはそのとおりですが、同時のそのような言説は権利行使を望んでいる人に対し他の人は望んでいないかもしれないとしてその権利を奪うものであり、個人尊重の理念からは妥当とは思えません。

今こそ憲法の自己決定権をベースにした「死ぬ権利」についての議論を開始すべきです(同時にALSその他の難病患者の置かれた立場について改善の余地がないのか、薬物などの開発により大きな投資をすべきではないかという議論も進めるべきは当然です)。
さいとうゆたか法律事務所トップはこちらです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です